吃音の症状を軽くしようとはせずに、治療を行わないという方法も生まれました。
治すことばかり考えて、わだかまりが生まれてしまい、症状を悪化させているのではないか、という考えによるものです。
吃音は、決して病気や悪いことではなく、ひとつの個性と考えて、つっかえながらも、自分らしく話す方が良いと考えたのです。
精神的な苦悩から解放される可能性も現実は難しい部分も
自分は吃音であるということを改めて認識し、すべての現状を受け入れて、同様に、周囲の人にも受けとめてもらうことになります。
この方法を選択することによって、治さなければいけないという苦悩から逃れ、吃音に対する執着が消えて心にゆとりができたという人や、つっかえながらも、人前に出て話すことによって自信がつき、ストレスが消え、症状が軽減したという人もいます。
吃音者が精神的な苦しみから解放されるということは、とてもよいことだと思います。
この方法は、吃音者が団結し、さらに周囲の理解を得なくては難しいと思いがちですが、しかしこれは、どの方法でも同じことが言えると思います。
なんとかして吃音を治したいと思っている人も吃音を抱えて生きていく決意をした人も、これまでの、どの方法を選ぼうと、周囲の理解なしには、治療に効果は出ないと思うのです。
吃音者が、治療に専念できる環境や、吃音を表に出して生活する環境は、やはり周囲の人の正しい理解と協力が必要です。
社会で生きている以上、社会全体がこのことをしっかり認識していてほしいと思います。
「吃音は治すべきものだ」という考え方が、大昔から、そして現在もまだ浸透しています。
さまざまな治療法が考案されるのは、「治すべきもの」という考えが、根底にあるからこそなのかもしれません。
しかし、小学校へあがってからは、治る確率が少なくなると言われるように、それまでに自然治癒しない場合は治療を受けても、効果が現れにくいのが現実です。
歳を重ねるほど、完全に治すのは困難だともいわれています。
徐々に、症状が軽くなっても、突然重い症状が現れたりすることもありますし、さらに、費やした時間と治療費の現実が重くのしかかり、治療を受けても治らないという苦悩は想像をはるかに超えたものとなります。
長い年月、人を苦しめてきた吃音ですが、治療法はまだ確立されていないのが現実なのです。
厳しいですが、この現状をしっかりと受けとめなくてはいけません。
しかし、治らないのは本人の頑張りが足りないせいだ、などという、根拠のない中傷や偏見があったり、本人が、本気で「自分の努力が足りない」と思い悩んでしまうこともあります。
また、さまざまな練習や訓練で、吃音が治った人は、自分が行った方法を勧めますが、ひとつの治療法が、すべての人に効果があるとは限らず、かえって、逆効果となることさえあります。
こうして、吃音者同志で衝突が起こることもあるのです。
こうして、治したいのに治らない人が悲観的になり、絶望感におそわれてしまうこともあります。
原因が解明されないまま、決定的な治療法もない中で、それぞれの方法で改善した人がいるという現状では、克服方法も、また様々であるということを認識しておきましょう。