吃音は、吃音そのものと平行して、吃音者自身の、大きな心の苦しみや痛みと、吃音者を差別と偏見の目で見てしまう社会の存在が大きな問題となっています。
吃音者は、自分の話し方や、話す時の身振りに対して、相手がいらだっていたり、不快な思いをさせてしまっていることを感じとり、多くの人に迷惑をかけてしまっていると考え込み、自分を情けなく思い、周囲の人に対しては、罪悪感、劣等感を抱くようになるといいます。
人と会う事にプレッシャーを感じてしまう事も
そして、人と話すことに強いプレシャーを感じるようになり、人と会わなくなったり、または人と会っても話すことから逃れ、ろうあ者のふりをすることもあるようです。
このように、人とコミュニケーションとることができなくなり、否定的で、後ろ向きな考えになり、殻に閉じこもるようになる人も少なくありません。
また、話せない、話を聞こうとしないような人間関係から意思が通じずに衝突を起こしてしまうこともあります。犯罪にまでつながることもあります。
三島由紀夫の『金閣寺』は、吃音に苦悩しながら育ち、やがて金閣寺に火をつけてしまう青年を描いています。
このような犯罪は、社会全体の理解がなく、周囲の人とコミュニケーションがはかれなかったために起こる問題です。
吃音者でなくても、人と意思が通じずに、コミュニケーションがはかれないのは酷なことです。
周囲の人や、社会のあり方が、吃音者の心の苦しみを大きく左右するということを忘れてはいけないのです。